ロック・ヒューム・バークリーとは?イギリス経験論をやさしく学ぶ入門ガイド
「デカルトの“我思う、ゆえに我あり”は聞いたことがあるけど、それに対抗する“経験論”って何?」
哲学と聞くと、なんだか難解で、とっつきにくいイメージがありませんか?特に西洋近代哲学は、カントやヘーゲルなど、名前を聞いただけで尻込みしてしまうような哲学者がたくさんいます。しかし、その流れを丁寧に紐解いていくと、現代の私たちの考え方にも大きな影響を与えている、非常に興味深い思索の歴史が見えてきます。
この記事では、そんな哲学の世界の中でも、特に「経験」を重視したイギリス経験論に焦点を当てます。ジョン・ロック、ジョージ・バークリー、デイヴィッド・ヒュームという3人の代表的な哲学者たちの思想を追いながら、彼らがどのように「知識」や「存在」について考えたのかを、哲学初心者の方でも“ざっくり理解”できるように、やさしく解説していきます。
合理論との違いや、現代哲学への影響まで網羅し、この記事を読み終える頃には、イギリス経験論の面白さと奥深さを感じていただけることでしょう。さあ、一緒にイギリス経験論の世界へ足を踏み入れてみましょう!
イギリス経験論とは何か?【哲学の2大潮流】
17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは、近代哲学が大きく花開きました。その中で、「人間の知識はどこから来るのか?」という根源的な問いに対して、大きく二つの潮流が生まれました。それが「合理論(理性論)」と「経験論」です。
合理論は、フランスのルネ・デカルトやオランダのバールーフ・デ・スピノザ、ドイツのゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツなどが代表的です。彼らは、確実な知識の源泉を人間の「理性」に求めました。デカルトの有名な言葉「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」は、あらゆるものを疑った末に、疑っている自分自身の存在だけは疑い得ないという理性的直観から出発し、そこから演繹的に神の存在や世界の存在を証明しようとしました。つまり、生まれながらにして人間に備わっている理性的な能力や、生得的な観念(アイデア)を重視したのです。
一方、これに対して主にイギリスで展開されたのが経験論です。経験論者たちは、「知識の起源は、五感を通じた感覚経験にある」と考えました。生まれたばかりの赤ん坊の心は、いわば白紙の状態(タブラ・ラサ)であり、そこに様々な経験が書き込まれることによって知識が形成されていくと主張したのです。
彼らは、合理論者が重視する生得観念を否定し、あくまで観察や実験といった具体的な経験を通して得られる知識こそが確実であると考えました。この経験論の考え方は、後の自然科学の発展にも大きな影響を与えることになります。
本記事では、このイギリス経験論を代表する3人の哲学者、ジョン・ロック、ジョージ・バークリー、デイヴィッド・ヒュームの思想を順に見ていくことで、経験論がどのように展開し、深化していったのかを明らかにしていきます。
ジョン・ロック:すべての知識は経験から
イギリス経験論の基礎を築いたと言われるのが、ジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)です。彼は、デカルトのような大陸合理論における生得観念の考え方を真っ向から批判し、「人間の心は生まれたときには何も書かれていない白い紙(ラテン語でタブラ・ラサ)」であると主張しました。
では、その白紙の心に、どのようにして知識が書き込まれていくのでしょうか?ロックによれば、知識の材料となる観念(アイデア)は、すべて経験から供給されます。そして、その経験には二つの種類があるとしました。
- 外的経験(感覚:Sensation): これは、私たちの五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)を通して、外界の事物から得られる経験です。例えば、「リンゴは赤い」「砂糖は甘い」「石は硬い」といった認識は、この外的経験に基づいています。ロックは、物体の性質を「第一性質(大きさ、形、運動など、物体そのものに備わっている客観的な性質)」と「第二性質(色、味、音など、観察者の心に引き起こされる主観的な性質)」に分けました。
- 内的経験(反省:Reflection): これは、私たち自身の心の働き(思考、疑い、信じる、意志する、記憶するなど)を対象とする経験です。例えば、「私は今、何かを考えている」とか「私は悲しいと感じている」といった認識は、この内的経験に基づいています。
ロックは、これら二つの経験から得られる単純観念(それ以上分解できない基本的な観念、例えば「赤い」「甘い」「硬い」など)が、精神の働きによって結合されたり、比較されたり、抽象化されたりすることで、複雑な観念(例えば「リンゴ」「人間」「正義」など)が形成されると考えました。
つまり、ロックにとって、どんなに複雑で抽象的な観念であっても、その根源をたどれば必ず感覚か反省という具体的な経験に行き着くはずであり、「人は生まれながらに知識を持っている」という合理論の先天的観念(生得観念)はあり得ない、と結論づけたのです。
彼の主著である『人間知性論(人間悟性論)』は、このような経験論的認識論を詳細に展開したものであり、後のバークリーやヒュームに大きな影響を与えました。また、ロックは政治思想の分野でも『統治二論』を著し、社会契約説や抵抗権を主張するなど、アメリカ独立宣言やフランス革命にも思想的な影響を与えた重要な哲学者です。
ジョージ・バークリー:存在するとは知覚されること
ロックの経験論を引き継ぎつつ、さらに徹底させたのがアイルランドの哲学者であり聖職者でもあったジョージ・バークリー(George Berkeley, 1685-1753)です。彼の哲学は、一見すると非常に奇妙で、常識外れに聞こえるかもしれません。なぜなら、彼は「存在するとは知覚されること(Esse est percipi)」という有名なテーゼを掲げ、物質的な実体の存在を否定したからです。
ロックは、物体の第一性質(客観的性質)と第二性質(主観的性質)を区別し、第一性質は物体そのものに属すると考えました。しかしバークリーは、この区別を否定します。彼によれば、私たちが認識しているのは、あくまで感覚を通して得られる観念(色、形、手触り、音など)の集まりに過ぎません。例えば、私たちが「リンゴ」と呼んでいるものは、「赤い」「丸い」「甘酸っぱい香り」「ツルツルした手触り」といった観念の束です。そして、これらの観念はすべて、誰か(人間や精神)によって知覚されて初めて存在するのだ、とバークリーは主張します。
では、私たちが知覚していないとき、例えば誰も見ていない部屋にある机や椅子は存在しないのでしょうか?この素朴な疑問に対して、バークリーはこう答えます。「それらは、神が常に知覚しているから存在するのだ」と。バークリーは聖職者であったため、彼の観念論は神の存在を前提としています。あらゆるものは、何らかの精神(人間の精神、あるいは神の精神)によって知覚されることによってのみ存在し、知覚から独立した物質的実体(マテリアル・サブスタンス)などというものは存在しない、というのが彼の立場です。これを観念論(Idealism)、あるいはより正確には非物質論(Immaterialism)と呼びます。
バークリーが物質的実体を否定した背景には、当時の唯物論や無神論への警戒感がありました。物質こそが唯一の実在であるとする唯物論的な考え方が広まれば、神の存在や霊魂の不滅といった宗教的信念が揺らぎかねないと考えたのです。そこで彼は、経験論を徹底することで、むしろ観念と精神(そして神)だけが実在するという結論に至りました。
彼の主著『人知原理論』や『ハイラスとフィロナスの対話』では、このような独特の観念論が展開されており、常識的な見方とは異なる世界の捉え方を示しています。一見突飛に聞こえるかもしれませんが、私たちが「確かに存在する」と信じているものの根拠を問い直す、非常に刺激的な哲学です。
デイヴィッド・ヒューム:因果性すら疑え
イギリス経験論の到達点であり、その徹底した懐疑主義によって後の哲学に大きな衝撃を与えたのが、スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)です。彼は、ロックやバークリーの経験論をさらに推し進め、私たちが当たり前だと考えている「因果関係」や「自己同一性」といった概念すらも、経験的には確証できないと論じました。
ヒュームもまた、知識の源泉を経験に求めます。彼によれば、私たちの心に浮かぶすべての知覚(Perception)は、印象(Impression)と観念(Idea)に分けられます。
- 印象(Impression): 直接的な感覚経験や感情のこと。例えば、実際に火を見て「熱い」と感じる、あるいは怒りの感情を抱くなど、鮮明で生き生きとした知覚です。
- 観念(Idea): 印象の記憶や想像によって心に再現されたもの。印象に比べると、ぼんやりとしていて力強さに欠けます。例えば、過去に見た火を思い出したり、空想上の生き物を思い描いたりすることです。
ヒュームは、あらゆる観念は必ず何らかの印象から派生していると考えました。もしある観念が、対応する印象を持たないならば、その観念は空虚で意味のないものだと判断されます。
この原則を、私たちが日常的に用いている「因果関係」の観念に適用してみましょう。例えば、「火に触れると火傷する」という場合、私たちは「火に触れること(原因)」が「火傷すること(結果)」を引き起こすと信じています。しかし、ヒュームによれば、私たちが実際に経験しているのは、「火に触れる」という印象と、「火傷する」という印象が、時間的に近接し、空間的に隣接し、そして常に同じ順序で繰り返し起こるという事実に過ぎません。
私たちは、二つの事象が恒常的に結びついて現れるのを何度も経験するうちに、一方(原因)が他方(結果)を「必然的に」引き起こすという「習慣(custom, habit)」からくる信念を抱くようになります。しかし、その「必然的な結びつき」や「力」そのものを、私たちは感覚的に知覚することはできません。つまり、因果関係とは、客観的な世界の法則ではなく、私たちの心が生み出した主観的な期待、習慣の産物であるとヒュームは結論づけたのです。
同様に、ヒュームは「実体」という観念も批判します。私たちが「自己」と呼んでいるものも、絶えず変化し続ける知覚の束(a bundle or collection of different perceptions)に過ぎず、その背後に変わらぬ実体としての「私」が存在するという保証はないとしました。
このようなヒュームの徹底した経験主義は、伝統的な形而上学が扱ってきた神、魂、実体、因果性といった概念の確実性を根底から揺るがすものであり、一種の懐疑主義(Skepticism)へと至ります。しかし、彼の懐疑は、単なる破壊的なものではなく、人間の認識能力の限界を明らかにし、独断論に陥ることなく謙虚に知識を探求する姿勢を促すものでした。彼の主著『人間本性論(人性論)』や『人間知性研究(人間悟性研究)』は、後のカント哲学をはじめ、現代の認識論や科学哲学にも大きな影響を与え続けています。
合理論と経験論の違いを整理しよう
ここまで、イギリス経験論を代表する3人の哲学者、ロック、バークリー、ヒュームの思想を見てきました。彼らの思想をより深く理解するために、ここで改めて合理論と経験論の違いを整理しておきましょう。
| 比較項目 | 合理論 (Rationalism) | 経験論 (Empiricism) |
|---|---|---|
| 代表的な哲学者 | デカルト、スピノザ、ライプニッツ | ロック、バークリー、ヒューム |
| 知識の源泉 | 理性、生得観念 | 感覚経験(五感による観察、内省) |
| 認識方法 | 演繹的推論(一般的な原理から個別的な結論を導く) | 帰納的推論(個別の経験的事実から一般的な法則を見出す) |
| 確実性の基礎 | 理性的直観、明晰判明な観念 | 感覚データ、観察可能な事実 |
| 心の状態(初期) | 生得観念が備わっている | タブラ・ラサ(白紙の状態) |
| 重視するもの | 数学、論理学、形而上学 | 自然科学、実験、観察 |
| 主な主張の例 | 「我思う、ゆえに我あり」(デカルト) 神の存在証明(スピノザ) |
「存在するとは知覚されること」(バークリー) 「因果関係は習慣の産物」(ヒューム) |
| 強み | 論理的整合性、体系性、普遍的な真理の探求 | 具体性、実証性、科学的知識の基礎となり得る |
| 弱み・批判点 | 独断論に陥りやすい、経験的事実との乖離の可能性 | 普遍妥当な知識の確立の困難さ、懐疑主義に陥りやすい |
ロック vs デカルト
- デカルト(合理論): 「我思う、ゆえに我あり」と理性的直観から出発。生得観念(神の観念など)を認め、そこから演繹的に世界の存在を論証しようとした。精神と物体を明確に二分する物心二元論を唱えた。
- ロック(経験論): 心はタブラ・ラサ(白紙)であり、すべての観念は感覚か反省という経験に由来すると主張。生得観念を否定した。
ヒューム vs スピノザ
- スピノザ(合理論): 神即自然(デウス・シウェ・ナトゥーラ)という汎神論的立場から、幾何学的な方法を用いて世界のすべてを理性的に説明しようとした。実体は唯一(神=自然)であり、精神も物体もその様態であるとした。
- ヒューム(経験論): 経験を超えた実体や因果性の存在を否定。自我も知覚の束に過ぎないとし、徹底した懐疑主義に至った。スピノザのような形而上学的体系の構築は不可能であると考えた。
このように、合理論と経験論は、知識の起源や確実性の根拠について対照的な立場をとりました。合理論が理性の力を信じ、普遍的で必然的な真理を探求しようとしたのに対し、経験論はあくまで感覚経験を重視し、観察や実験に基づく知識の確かさを追求しました。
それぞれの立場には強みと弱みがあり、例えば合理論は論理的な整合性や体系性を持ちますが、現実の経験から乖離してしまう危険性も孕んでいます。一方、経験論は具体的な事実に即していますが、普遍的な法則や確実な知識を見出すことが難しく、ヒュームのように懐疑主義に行き着く可能性もあります。
この二つの潮流は、互いに批判し合いながらも、近代哲学の発展に大きく貢献しました。そして、この対立を乗り越えようとする試みが、次の時代の哲学、特にカントの哲学へと繋がっていくのです。
現代哲学への影響とまとめ
イギリス経験論は、その後の哲学、そして科学の発展に計り知れない影響を与えました。特に、18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)は、ヒュームの著作に触れたことが「独断のまどろみ」から目覚めるきっかけになったと述べています。
カントは、合理論と経験論のどちらか一方だけでは不十分であると考え、両者の長所を統合しようと試みました。彼の「コペルニクス的転回」として知られる批判哲学は、「我々の認識が対象に従うのではなく、対象が我々の認識に従う」という発想の転換を行い、経験の素材(経験論的要素)と、それを整理し秩序づける人間側の認識の形式(合理論的要素、例えば時間・空間の直観形式やカテゴリー)を区別しました。これにより、経験に根差しつつも普遍妥当性を持つ知識がいかにして可能になるかを明らかにしようとしました。カントの哲学は、近代哲学の集大成とも言えるものであり、現代に至るまで大きな影響力を持っています。(もしご興味があれば、「カント入門:純粋理性批判ってなに?」の記事もご覧ください。)
また、経験論の「観察や実験を重視する姿勢」は、科学的思考や科学的方法論の発展に大きく貢献しました。仮説を立て、それを検証するために実験を行い、得られたデータに基づいて結論を導くという現代科学の基本的なプロセスは、経験論的な精神と深く結びついています。特に、帰納法を重視する考え方は、多くの科学的発見の基礎となりました。
初心者がイギリス経験論を学ぶ意義とは何でしょうか?
- 「当たり前」を疑う視点: ロック、バークリー、ヒュームの思想は、私たちが普段当たり前だと思っている「知識」や「存在」、「原因と結果」といった概念について、深く問い直すきっかけを与えてくれます。
- 現代の思想や科学のルーツを知る: 彼らの考え方は、現代の心理学、認知科学、言語哲学、そして科学全般の基礎に影響を与えています。経験論を学ぶことで、これらの分野への理解も深まるでしょう。
- 論理的思考力と批判的精神の涵養: 哲学者の議論を追いかけることは、論理的に考える訓練になります。また、様々な主張を鵜呑みにせず、その根拠を問う批判的な精神を養うことにも繋がります。
最後に、イギリス経験論や近代哲学について、さらに深く学んでみたいという方のために、いくつか入門書を紹介します。
- 熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』『西洋哲学史 近代から現代へ』(岩波新書)
- 貫成人『哲学マップ』(ちくま新書)
- 岡部勉『哲学の起源から現代を読む』(NHKブックス)
もちろん、ロックの『統治二論』や『人間知性論』(抄訳)、バークリーの『人知原理論』、ヒュームの『人間知性研究』など、原典に触れてみるのも良いでしょう。最初は難解に感じるかもしれませんが、解説書と併読することで理解が深まります。
この記事を通して、イギリス経験論の魅力、そして哲学を学ぶことの面白さが少しでも伝われば幸いです。デカルトの合理論に興味を持たれた方は、「デカルト入門:我思う、ゆえに我ありとは?」の記事もぜひお読みください。哲学の世界は奥深く、探求すればするほど新たな発見があります。ぜひ、この機会に哲学の扉を開いてみてください。

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