正義とは何か?現代社会と哲学から読み解く「正しさ」の意味

正義とは何か?哲学の視点から考えてみる

「それは正義に反する」「社会正義を実現すべきだ」

私たちは日々、ニュースやSNS、あるいは日常会話の中で、当たり前のように「正義」という言葉を使い、その名のもとに行動を起こします。

しかし、一度立ち止まって考えてみると、その“正義”とは、一体何なのでしょうか?

ある人にとっての「正義」が、別の人にとっては「不正義」に映る。

現代社会は、価値観の多様化とともに、時に激しい対立や分断を経験しています。SNSでの炎上、政治的な意見の対立、国際的な紛争。その根底には、しばしば食い違う「正義」の存在があります。

この記事では、古代ギリシャから現代に至るまで、偉大な哲学者たちがどのように「正義」という壮大なテーマと向き合ってきたのかを紐解きます。

彼らの考えは、複雑で分かりにくい現代社会を生きる私たちに、唯一絶対の答えではなく、物事を多角的に捉え、自分自身の「正義」を深く見つめ直すための強力な”手がかり”を与えてくれるはずです。

この記事を読み終える頃には、あなたの「正義」を見る目が、少し変わっているかもしれません。

「正義とは何か?哲学の視点から考えてみる」というタイトルが中央上部に表示された横長のアイキャッチ画像。背景は落ち着いたベージュ色で、左から本と疑問符、古代哲学者の横顔シルエット、天秤のイラストが並んで配置されている。全体的に哲学的で思索的な雰囲気を演出している。




正義とは?——言葉の意味と日常的な使い方

まず結論から言えば、私たちが日常で使う「正義」という言葉には、客観的な意味と主観的な意味合いが混在しており、その”ズレ”こそが、多くの混乱や対立を生む根源となっています。

このズレを理解することが、正義という迷宮を探求する上での最初の重要な一歩となります。

辞書を引けば、「正義」とは「人の行うべき正しい道筋。道徳・倫理・法律などの規範にかなっていること」といった意味が記されています。
これは、社会全体で共有されるべき、客観的で普遍的な「正しさ」を指しているように見えます。

しかし、現実の使われ方はどうでしょうか。

私たちはアニメや映画に出てくる「正義の味方」という言葉を、何の疑いもなく使います。
これは多くの場合、「悪を討ち、弱きを助ける存在」という共通のイメージでしょう。

ところが、ひとたび現実社会に目を向けると、事態は一気に複雑化します。

例えば、SNS上で「社会正義」という言葉が飛び交う場面を想像してみてください。

ある企業の商品広告が「女性差別的だ」と批判され、不買運動に発展したとします。
批判する人々は、性差別のない平等な社会を目指すという「社会正義」のために行動しています。彼らにとって、これは不正を正す”正しい”行いです。

一方で、その企業や広告の表現を擁護する人々も現れます。
彼らは「表現の自由を守るべきだ」「過剰な言葉狩りは社会を萎縮させる」という、また別の「正義」を主張します。

両者とも、自らが「正しい道筋」を歩んでいると信じています。
ここに、客観的であるはずの「正義」が、個人の価値観や信条を強く反映した、きわめて”主観的”なものへと姿を変える瞬間が見て取れます。

つまり、多くの人が「これが社会の正義だ」と語る時、その内実 は「私が正しいと信じる道筋」であることが少なくないのです。

この主観的な正義は、個人の経験や感情、所属するコミュニティの価値観に深く根ざしているため、非常に強力なエネルギーを持ちます。
そして、自分の信じる正義が絶対的だと確信すればするほど、異なる意見を持つ他者を「不正義」あるいは「悪」と断じてしまいがちです。

このように、辞書的な意味での「客観的な正しさ」と、私たちが感情的に抱く「主観的な正しさ」。
この二つの側面が「正義」という一つの言葉に込められているという認識を持つこと。

それが、なぜ正義をめぐる議論がこれほどまでに熱を帯び、時に人々を分断してしまうのかを理解するための、最初の鍵となるのです。


哲学から見た正義——3つの主要なアプローチ

では、この捉えどころのない「正義」という概念に、歴史上の思想家たちはどのように向き合ってきたのでしょうか。

「正義」がなぜこれほどまでに多様な顔を持つのか、その理由を解き明かすために、哲学の世界に足を踏み入れてみましょう。

ここでは、西洋哲学の礎を築いた古代ギリシャの二人、プラトンとアリストテレス、そして現代の正義論に絶大な影響を与えたジョン・ロールズの3つのアプローチを紹介します。

彼らの考え方は、それぞれが「正義」という山の異なる側面から登ろうとする試みであり、私たちに多様な視点を提供してくれます。

プラトンの正義論:魂の調和と理想国家

古代ギリシャの哲学者プラトンにとって、正義とは「調和」そのものでした。

彼が考えたのは、社会や個人を構成する各部分が、それぞれの本来の役割を完璧に果たすことで生まれる、美しく秩序だった状態こそが「正義」である、という壮大なビジョンです。

プラトンはこの思想を、主著である『国家』の中で詳しく論じています。
彼は、良い国家と良い個人(魂)は同じ構造を持つと考えました。

少し図式的に見てみましょう。

【プラトンの考える魂と国家の構造】

魂の三部分 対応する徳 国家の三階級
理性(知恵を愛する部分) 知恵 統治者階級(哲学者)
気概(名誉を愛する部分) 勇気 防衛者階級(軍人)
欲望(利得を愛する部分) 節制 生産者階級(市民)

プラトンによれば、個人の魂の中で「理性」が「気概」と「欲望」をうまくコントロールし、調화が取れている状態が、その人にとっての正義です。
例えば、甘いものを食べたいという「欲望」を、健康を考える「理性」が適切に抑える、といったイメージです。

同様に、国家においても、知恵ある「統治者」が、国を守る「防衛者」と物資を生み出す「生産者」を導き、社会全体が秩序だって機能している状態こそが、正義にかなった国家だと考えました。

プラトンの正義論の核心は、「あるべき場所で、あるべき役割を果たすこと」です。

これは、現代の「適材適所」という考え方に通じるものがあります。
自分の得意なこと、やるべきことに集中し、他者の領域を侵さない。そうすれば、組織全体として最高のパフォーマンスが発揮される、という考え方です。

しかし、この考え方には注意すべき点もあります。
プラトンの理想国家では、個人の職業や生き方は、生まれや素質によって厳格に定められます。個人の自由な選択よりも、国家全体の「調和」と「秩序」が優先されるのです。

現代の私たちが大切にする「個人の自由」や「平等」といった価値観とは、少し相容れない側面も持っています。

とはいえ、プラトンの問いかけは今なお重要です。
「社会全体にとっての”善”とは何か?」「そのために個人はどのような役割を担うべきか?」
こうした大きな視点から「正義」を考えることの重要性を、プラトンは教えてくれます。

アリストテレスの正義:配分的・矯正的正義

プラトンの弟子であるアリストテレスは、師の壮大な理想論とは対照的に、より現実的で実践的な視点から正義を探求しました。

アリストテレスにとっての正義の核心は、「すべての人を同じように扱うこと」ではなく、「それぞれの人にふさわしいものを、ふさわしいだけ与えること」でした。

彼は、単一の「平等」を押し付けるのではなく、状況に応じた”適切な違い”を認めることこそが重要だと考えたのです。

アリストテレスは正義を、大きく二つの種類に分けました。

  1. 配分的正義 (Distributive Justice)
  2. 矯正的正義 (Corrective Justice)

これを、現代の会社の給料と、交通事故の例で考えてみましょう。

1. 配分的正義:貢献度に応じた給料

「配分的正義」とは、名誉や富、地位などを、人々の価値や功績に応じて「比例的」に分配することです。

例えば、会社で全員の給料が全く同じだったらどうでしょうか?
大きな成果を上げた人も、あまり働かなかった人も同じ給料だとしたら、多くの人が「不公平だ」と感じるでしょう。

アリストテレスは、まさにこの点に着目しました。
彼は、個人の貢献度や能力といった「価値(メリット)」に応じて、報酬を分配するのが正しいと考えます。
AさんがBさんの2倍の成果を上げたなら、AさんはBさんの2倍の報酬を受け取るのが「ふさわしい」。これが配分的正義の考え方です。

Aさんの功績:Bさんの功績 = Aさんの報酬:Bさんの報酬

この「功績に比例した分配」という考え方は、現代の成果主義的な給与体系や、コンテストの賞金配分などの根底に流れる、非常に直感的に理解しやすい正義観と言えます。

2. 矯正的正義:交通事故の損害賠償

一方、「矯正的正義」は、不正な取引や犯罪によって損なわれた状態を、元の平等な状態に「矯正」するための正義です。
こちらは、当事者間の利害や功績は関係ありません。ただ、失われたものを元に戻すことだけが目的です。

例えば、Aさんが不注意でBさんの車にぶつかり、10万円の損害を与えたとします。
この場合、裁判所が考慮するのは「Aさんがどれだけ偉いか」や「Bさんがどれだけ貧しいか」ではありません。
ただ単純に、Bさんが失った「10万円」という価値を、Aさんが補填することで、損害が発生する前の状態に”矯正”することを目指します。

これは、現代の民事裁判における損害賠償の考え方の基本です。
当事者の身分や地位に関係なく、数学的な「等しさ」を回復させようとするのが、矯正的正義なのです。

プラトンが社会全体の「あるべき姿」というトップダウンの視点から正義を考えたのに対し、アリストテレスは、現実社会で起こる具体的な問題(分配やトラブル)をどう解決するか、というボトムアップの視点から正義を分析しました。

「誰にでも同じように」ではなく、「状況や功績に応じて適切に」。
このアリストテレスの現実的なアプローチは、複雑な利害が絡み合う現代社会において、公平な判断を下すための重要な示唆を与えてくれます。

ロールズの正義論:格差を容認する公正な条件

時代は一気に20世紀へ飛び、現代の正義論に最も大きな影響を与えた哲学者、ジョン・ロールズの登場です。

貧富の差が拡大し、社会的な不平等が大きな問題となる中で、ロールズはこう問いかけました。
「そもそも、私たちが従うべき社会の根本的なルールは、どうすれば”公正(フェア)”なものになるだろうか?」

ロールズがたどり着いた結論は、「社会的に最も恵まれない人々の状況を最大限に改善する場合にのみ、経済的な格差は許される」という、画期的なものでした。

この結論を導き出すために、彼は「無知のヴェール」という、非常に巧みな思考実験を考案します。

思考実験:「無知のヴェール」

想像してみてください。
あなたがこれから生まれてくる社会のルールを、他の人たちと一緒に決める会議に参加しています。

ただし、そこには一つだけ特殊な条件があります。
あなたは「無知のヴェール」を被っており、自分がその社会でどのような人間になるか、一切知らされていません。

  • 自分が男性か女性か、わからない。
  • 裕福な家庭に生まれるか、貧しい家庭に生まれるか、わからない。
  • 健康か、障がいを持っているか、わからない。
  • 才能に恵まれているか、そうでないか、わからない。
  • どの人種や宗教に属するかも、わからない。

さて、このような状況で、あなたはどのような社会のルールを選びますか?

おそらく、大金持ちだけが有利になるような社会は選ばないでしょう。なぜなら、自分が最も貧しい立場になる可能性があるからです。
同様に、特定の性別や人種だけが優遇される社会も選ばないはずです。

ロールズは、この「無知のヴェール」の背後では、合理的な人々は次の二つの原理に合意するだろう、と考えました。

  1. 第一原理(平等な自由の原理):
    全ての人は、基本的な自由(思想の自由、表現の自由、政治的な自由など)について、平等な権利を持つべきである。
  2. 第二原理(格差原理):
    社会的・経済的な不平等(格差)が許されるのは、以下の二つの条件を同時に満たす場合だけである。
    • (a) 公正な機会均等の原理: 全ての人に、その地位や職務に就く機会が公正に開かれていること。
    • (b) 格差原理: その不平等が、結果的に社会の中で最も不遇な立場にある人々の利益を最大化することに繋がること。

特に重要なのが、第二原理の(b)「格差原理」です。

ロールズは、完全な平等を求めたわけではありません。
例えば、医師が高い給料を得る、といった格差を認めています。
なぜなら、高い報酬がインセンティブとなり、優秀な人材が医師を目指し、その結果、質の高い医療が社会全体に行き渡り、最も貧しい人々もその恩恵を受けられる(=利益が最大化される)可能性があるからです。

しかし、もしその格差が、富裕層をさらに富ませるだけで、最も困っている人々を助けることに繋がらないのであれば、その格差は「正義に反する」とロールズは考えます。

この考え方は、現代の福祉政策富の再分配(累進課税など)、教育における機会均等の重要性を訴える理論的な支柱となっています。

ロールズの正義論は、個人の努力や才能を認めつつも、その結果生じる格差が社会全体の「公正さ」を損なわないように、常に最も弱い立場の人々への配慮を求める、非常に現代的で力強いメッセージを持っているのです。
より詳しく知りたい方は、ロールズの主著『正義論』の解説などを参照することをお勧めします。


正義と社会課題——なぜ人によって「正義」が異なるのか?

プラトン、アリストテレス、ロールズ。三者三様の正義論を見てきただけでも、「正義」が一筋縄ではいかないことがお分かりいただけたと思います。

では、なぜ現代社会において、これほどまで人々が信じる「正義」は衝突し、時に激しい分断を生んでしまうのでしょうか。

その根本的な原因は、私たちの社会が、単独では決して満たすことのできない、複数の重要な価値観の”トレードオフ”の上に成り立っているからに他なりません。

人々はそれぞれ、どの価値観をより重視するかによって、全く異なる「正義」の姿を見ているのです。

【正義を構成する、対立しがちな価値観の例】


公正  <-->  平等
自由  <-->  安全
個人の権利  <-->  公共の福祉
伝統・秩序  <-->  革新・変革
    

これらの価値観は、どれも私たちの社会にとって重要です。しかし、片方を追求すれば、もう片方が犠牲になりやすい「トレードオフ」の関係にあります。

この構造を、現代社会が抱える具体的な問題に当てはめて考えてみましょう。

実例:SNSでの「表現の自由」をめぐる炎上

近年、SNS上では著名人の発言が「差別的だ」として炎上し、謝罪や活動自粛に追い込まれるケースが後を絶ちません。
この現象、いわゆる「キャンセルカルチャー」をめぐる議論は、まさに「正義」と「正義」の衝突の典型例です。

  • 批判する側の「正義」
    彼らが重視するのは、「安全」「平等」といった価値観です。
    差別的な発言は、マイノリティの人々の尊厳を傷つけ、精神的な安全を脅かす暴力であると捉えます。
    このような発言を放置することは、社会に存在する不平等を助長し、固定化させることに繋がる。
    したがって、問題のある発言を厳しく批判し、その影響力を削ぐことは、より安全で平等な社会を実現するための「正義」の行使である、と考えます。
    彼らにとって、表現の自由は絶対的なものではなく、他者の尊厳を傷つけない、という制約のもとに認められるべきものです。

  • 擁護・静観する側の「正義」
    一方、こうした批判を「過剰な言葉狩りだ」と捉える人々もいます。
    彼らが重視するのは、何よりも「自由」、特に「表現の自由」という価値観です。
    たとえ不快な意見や間違った意見であっても、自由に議論できる場が確保されていなければ、社会は息苦しくなり、健全な言論空間は失われてしまう。
    一度「不適切」のレッテルを貼られると、社会的に抹殺されてしまうような風潮は、自由な社会にとって危険な兆候だと考えます。
    彼らにとって、多少の問題を含んだ表現であっても、それを公の場で議論し、反論していくことこそが、民主主義社会における「正義」のあり方なのです。

どちらの主張にも、一理あります。
問題は、双方が異なる価値観(安全 vs 自由)を最優先事項として掲げているため、議論が全く噛み合わないことです。
お互いが相手を「正義を理解していない」「社会を破壊しようとしている」と見なし、感情的な非難の応酬に陥ってしまうのです。

さらに、道徳や文化によっても「正義」の基準は大きく変動します。

例えば、家族やコミュニティの調和を重んじる集団主義的な文化では、個人の権利を主張することよりも、全体の和を保つことが「正しい」とされる傾向があります。
一方で、個人の自律性と自己実現を最優先する個人主義的な文化では、たとえ全体の和を乱すことになったとしても、個人の権利を守り抜くことが「正義」だと考えられます。

このように、私たちが無意識のうちに依拠している価値観の優先順位や、育ってきた文化的背景が、私たちの「正義」の形を決定づけています。

自分と異なる意見に出会ったとき、私たちは相手が「間違っている」のではなく、「自分とは異なる天秤で、価値を測っているのかもしれない」と想像することが、不毛な対立から抜け出すための第一歩となるでしょう。


功利主義と正義——最大多数の幸福は正しいのか?

これまで見てきた正義論とは少し異なる、しかし非常に影響力の強い考え方があります。それが「功利主義」です。

功利主義の基本的な考え方は、非常にシンプルかつ強力です。「最も正しい行いとは、社会全体の幸福(快楽)を最大化し、苦痛を最小化する行いである」。
つまり、「最大多数の最大幸福」をスローガンとする考え方です。

この思想を体系化したのは、18世紀から19世紀にかけてのイギリスの哲学者、ジェレミ・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルです。

一見すると、この考え方は非常に魅力的です。
多くの人が幸せになる政策こそが良い政策であり、社会の利益になる選択こそが正しい選択だ、というのは、民主主義社会の基本理念とも合致するように思えます。

公共事業を計画する際に行われる費用便益分析などは、まさに功利主義的な発想に基づいています。
「このダムを建設すれば、治水や発電によって100万人の住民が利益を得る。一方で、立ち退きを余儀なくされるのは100人の住民だ。したがって、この事業は社会全体の幸福を増大させるので”正しい”」といった論理です。

しかし、この功利主義的な正義には、重大な倫理的ジレンマと危険性が潜んでいます。
それは、「最大多数の幸福」のためであれば、少数派の権利や幸福が踏みにじられても構わない、という結論に繋がりかねないという点です。

この問題を鋭く突きつけるのが、有名な思考実験「トロッコ問題」です。

思考実験:「トロッコ問題」

暴走するトロッコが、線路の上で動けなくなっている5人の作業員に向かっている。
あなたは線路の分岐器のそばに立っており、レバーを引けば、トロッコの進路を別の線路に変えることができる。
しかし、その別の線路の上にも、1人の作業員がいる。

あなたはレバーを引くべきか?

功利主義の立場に立てば、答えは明確です。
1人の命と5人の命を天秤にかければ、5人を救うために1人を犠牲にする方が、全体の幸福(この場合は生存者の数)は最大化されます。したがって、レバーを引くことが「正しい」選択となります。

しかし、多くの人は、自らの手で1人の人間を犠牲にすることに、強い抵抗を感じるのではないでしょうか。
それは、私たちの中に「いかなる理由があろうとも、罪のない人を殺してはならない」という、功利主義とは別の道徳的な直観(義務論的な考え方)があるからです。

この対立構造をチャートで示すと、以下のようになります。

【正義をめぐる対立軸の一例】


[功利主義:結果を重視]
  - 社会全体の幸福の総量が全て
  - "5人を救うために1人を犠牲にする"
  - メリット:客観的で分かりやすい判断基準
  - デメリット:少数派の権利が侵害される危険性
          ↑
         対立
          ↓
[義務論/権利論:ルールや動機を重視]
  - 守られるべき普遍的なルール(義務)や権利がある
  - "無実の人を犠牲にしてはならない"
  - メリット:個人の尊厳や権利を守る
  - デメリット:ルールが現実の複雑な状況に対応できない場合がある
    

このジレンマは、思考実験の中だけの話ではありません。

  • あるテロリストが都市に爆弾を仕掛けたとします。その居場所を知るために、彼の家族を拷問することは許されるでしょうか?(多数の安全 vs 個人の人権)
  • 難病の特効薬を開発するために、健康な人を対象とした危険な人体実験を行うことは許されるでしょうか?(未来の多くの命 vs 現在の少数の命)

これらの問いに、簡単な答えはありません。

功利主義は、社会の効率性や全体の利益を考える上で非常に有効なツールです。
しかし、その計算にばかり頼っていると、私たちはいつの間にか「誰か」の犠牲の上に成り立つ幸福を、当たり前のものとして受け入れてしまうかもしれません。

だからこそ、私たちは常に自問し続ける必要があります。
「この”正しさ”は、誰かの声にならない叫びをかき消してはいないだろうか?」と。


あなたにとっての正義とは?哲学は“答え”ではなく“問い”をくれる

ここまで、プラトン、アリストテレス、ロールズ、そして功利主義と、様々な「正義」の捉え方を見てきました。

もしかしたら、「結局、どれが本当の正義なんだ?」「答えが分からず、余計に混乱してしまった」と感じた方もいるかもしれません。

しかし、それこそが哲学の持つ、最も重要な価値なのです。

哲学は、「これが絶対的な正義だ」というたった一つの答えを、私たちに与えてくれるわけではありません。そうではなく、自分や他者が信じる”正義”を、より深く、より多角的に問い直すための「思考の道具箱」を提供してくれるのです。

これまで紹介してきた哲学者たちの理論を、「物事を見るための、それぞれ性能の違うメガネ」だと考えてみてください。

【哲学という名の”思考のメガネ”】

  • プラトンのメガネ(理想と調和の視点):
    このメガネをかけると、「社会全体としてのあるべき姿は何か?」「私たちはその中でどんな役割を果たすべきか?」という問いが見えてきます。物事を大局的に捉え、理想を追求する視点です。

  • アリストテレスのメガネ(現実とバランスの視点):
    このメガネは、「この具体的な状況で、最もふさわしい扱いは何か?」を考えさせてくれます。ケースバイケースで、現実的な落としどころを探るための視点です。

  • ロールズのメガネ(公正と弱者の視点):
    このメガネをかけると、社会のルールが最も弱い立場の人々にとってどう作用するかが、はっきりと見えてきます。「もし自分がその立場だったら?」と、共感的な想像力を働かせる視点です。

  • 功利主義のメガネ(効率と全体の視点):
    このメガネは、「どちらの選択が、より多くの人を幸せにするか?」という計算を可能にします。社会全体の利益を最大化するための、客観的で合理的な視点です。

何か社会的な問題に直面したとき、あるいは誰かと意見が対立したとき。
私たちはつい、自分がいつもかけている”お気に入りのメガネ”だけで世界を見てしまいがちです。

しかし、一度立ち止まって、意識的にこれらのメガネをかけ替えてみたらどうでしょうか。

例えば、ある公共事業への賛否を考えるとき。
「功利主義のメガネ」では賛成に見えても、「ロールズのメガネ」をかけると、立ち退きを迫られる人々の苦境が見えてくるかもしれません。
「プラトンのメガネ」は、その事業が国家の長期的な発展という理想に合致するかを問い、「アリストテレスのメガネ」は、補償の額が本当に彼らの損失に”ふさわしい”ものかを考えさせてくれるでしょう。

このように、多様な視点を行き来することで、物事の白黒だけではない、豊かなグラデーションが見えてきます。
自分の考えがいかに一面的であったかに気づき、他者の主張の背後にある論理や価値観を理解する手がかりが得られます。

哲学が私たちに与えてくれるのは、他者を論破するための武器ではありません。
むしろ、自分の思考の癖や偏りに気づき、安易な結論に飛びつくのを防いでくれる「思考の安全装置」なのです。

だからこそ、この記事で最も伝えたいメッセージはこれです。

「正義を語るなら、まず自分の正義を疑え」

その疑いの先にこそ、他者との真の対話の可能性が広がっているのですから。


まとめ|社会の中で“正義”をどう扱うべきか

私たちはこの記事を通じて、「正義とは何か?」という壮大な問いを、哲学の歴史を旅しながら探求してきました。

古代ギリシャの「調和」や「ふさわしさ」を求める正義から、現代の「公正」としての正義、そして「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義まで。
絶対的な答えがないからこそ、人類は何千年もの間、この問いに向き合い続けてきたのです。

この記事を読んでくださったあなたは、もはや「正義」という言葉を、以前と同じようには聞けなくなっているかもしれません。
誰かが声高に「正義」を叫ぶとき、その背後にはどのような価値観の天秤が、どのような”思考のメガネ”が隠れているのかを、自然と考えるようになっているはずです。

私たちが学ぶべき最も重要なことは、正義とは、書斎で考える観念的なパズルではなく、日々の暮らしの中で他者と共に生きていくための、きわめて実践的な問いである、ということです。

SNSで誰かの意見に反論のコメントを書こうとした、その一瞬。
家族や友人と、政治や社会問題について意見が分かれた、その瞬間。

そこで問われているのは、どちらが「正しい」かを決めること以上に、私たちは異なる「正しさ」を抱えたまま、どうすれば共存し、対話し、より良い未来を築いていけるのか、という切実な課題です。

哲学は、そのための強力な羅針盤となります。

自分の正義観が絶対ではないと知ること。
それは、他者の立場や痛みを想像するための「共感」の入り口です。

多様な思考の枠組みを知ること。
それは、意見の違いを乗り越え、共通の解決策を探るための「対話」の土台です。

この記事が、あなたの心の中に眠っていた「正義」についての問いを呼び覚まし、あなた自身の「正義観」をより豊かで、よりしなやかなものへと広げていくための、ささやかな第一歩となったなら、これに勝る喜びはありません。

世界は複雑で、答えは簡単には見つからない。
だからこそ、私たちは問い続けるのです。自分にとって、そして、私たちにとって、「正義」とは何か、と。

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